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【場面緘黙症】12年間喋らなかった男の子の話を書きました。

タイトル見てびっくりしましたか?

これは紛れもなく僕の幼少期の話です。僕の少年時代は言葉を一切喋らなかった男の子でした。

そんな場面緘黙症だった幼少期について今回は話していきます。

目次

場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)との出会い。

俺自身も場面緘黙症って言葉を知ったのはここ2、3年のことで、最初はYouTubeで知りました。

最近では場面緘黙症についてのYouTubeが、めっちゃ流れてて再生回数もそこそこあります。知ってる人もちらほらいるかもしれないですね。

場面緘黙症のYouTube↓

再生回数あるけど、大抵の人は興味本位的な意味合いが強いでしょうね。

でも俺は違いました。これをみて

え、俺やん。

俺って場面緘黙症だったんだ。

そういう名前があること自体、初耳ではじめて耳にした時はビックリと同時に、今までモヤモヤしていたこの俺の症状が言語化できたことによって認められた感がありました。

そして名称があるぐらいだし俺だけじゃなかったんだこれって俺以外にも沢山の人がこの場面緘黙症で苦しんでいる人がいることも知りました。

12年間喋らなかった男の子の話

僕は幼稚園(3年)、小学校(6年)、中学校(3年)の学校生活で一言たりとも喋ってません。

学校で俺の声を聞いてる子は誰一人としていないです。声をかけられても。返事をする時も。親しい友達とも。

全てもれなく無言です。一言たりとも喋りません。これって簡単に書いてますが、いざこれで生活をすると異常なほどむずいです。

喋れないんで。誤解も、返事も、反応もなにもできないです。

それを12年間続けてたんで、俺ってすげぇなって。

それが良かった良くなかったは別にしてもマジで昔の俺「良く頑張ったよ」って

めっちゃ褒めてやりたい。

幼稚園 -場面緘黙症になったきっかけ-

幼稚園の頃はもうさすがに良く覚えてないけど、極度の恥ずかしがり屋だったのを覚えてます。

「しゃべる」もできなかったし。それ以外にも「走る」行為も恥ずかしい分類でした。

一人だけ歩いてたらそれこそ恥ずかしいだろって今だったら思うけど当時は幼稚園の運動会で先生に一人引っ張られながら走ってる姿が写真であったりしました。

小学校に上がった時あたりから喋る行為が「コミュニケーション」として使われだします。

いよいよ喋らない、いや喋れないがデメリット、不便だと感じるようになります。いうて幼稚園の時は喋らないっていっても、みんなもキャッキャいってるだけなので、

あんまり喋らなかったからといってデメリットはなかった。感じにくかったと思う。

コミュニケーションとして喋る行為が使われだしてからがこの場面緘黙症の地獄が始まります。

小学校 -場面緘黙症が場面緘黙症になる理由・原因-

もう小学生になると喋るのが普通になるので、俺って明らかに”普通”じゃないよなって感じ始めます。

最初の頃、優しく話かけてくれる同級生にまったく言葉を発しないわけですから明らかに普通じゃないですよね。

そうこうしていると周りも

あ、あの子は喋らない子なんだなという認識になります。

そうなるともう場面緘黙症の完成です。家では超喋ります。ていってもお喋りなわけではないですが、普通に喋ります。

場面緘黙症になる理由はこれです。

例えば、高校に入る時にバリバリのヤンキー仲間と一緒に入学して、みんなもあの人はヤンキーの認識がついて、自分ももちろんこの学校ではヤンキーの立ち位置の認識がある場合

自分がある日、優等生のキャラでいきたいなと思っても中々”その学校”ではもうそのキャラにはなれないと思います。

それと同じで最初の一言目を喋らない選択をとってしまったら、1人でもこの子は喋らないんだなと感じたら、もう喋れないです。

最初はたまたま喋らなかったのかな?と相手が軽く感じただけであっても不可能です。

ここで重要なのが同時に自分も僕はここでは喋らないんだなと認識することです。

このことで、僕は喋らない、喋らないんだなと認識する人が増える。この喋らない認識が連鎖的に強固になるので、場面緘黙症が発生します。

これって大なり小なり全ての人に当てはまると思っていて、

暗い人だったら暗い人の認識が自他共にありそれを抜け出すのは難しい

明るいキャラだったら明るいキャラの認識が自他共にありそれを抜け出すのは難しい

優等生だったら優等生の認識が自他共にありそれを抜け出すのは難しい

不良だったら不良の認識が自他共にありそれを抜け出すのは難しい

その人なりの呪縛がみんなそれぞれあるんですよね。それが喋らないのが、場面緘黙症ってことです。

そんなこんなで、喋らない月日はたち上級生にもなってくるとみんな認識もはっきりしてきます。

喋らないってめっちゃ目立つんですよ。

この子何言っても喋らないなってなるんで、めっちゃ目立ちます。

まぁいじめられますよね。

だって何も言い返してこないし。

友達として話したいのに喋らないし、興味を無理やり引こうとしたらいじめるしかないですからね。

男女共にいじめられました。

特に小学校の時は女子のいじめが酷かった。小学校なんかの時は女子の方が発達が早いんだと思います。

何も言い返してこない僕はただただやられるだけでした。

女子のいじめは言葉だったり閉じ込めるなんかが多かったように感じます。あとは王道に物を盗んだり、隠したりってやつですね。

昔すぎて詳細ないじめは覚えてないですが、集団一人をいじめるって感じでしたね。そして学校の中でも何か意思表示をしなきゃいけない時が出てきます。

その時に使っていたのが”書くこと”と”ジェスチー”で意志表現をしていました。もう完全に喋れない人と同じ意思表現を仕方をしてましたね。

紙に書いて話したり、首を横に縦にふったりで話していました。そんなある日、親から学校へ「喋るように指導して」と命令が入ります。

その時は確か当時小学校5年生か6年生ぐらいだったと思います。放課後1人残されて、喋るまで先生と2人きり。

ずっと沈黙か続く教室。

超強固になってる場面緘黙症が喋ることなんてできるはずもなく沈黙のまま何時間も居残りさせられ続けました。

それが何日も続く日がしばらく続いてました。

学校では先生と放課後に喋るまでの居残り、家に帰れば今日は喋れたのか押し問答の日々。

先生が忙しい日などはなかったのでいつも今日は残るのかビクビクしていた覚えがあります。

家に帰れば親からは常に「喋れたのかどうか」と報告を迫られてました。

ある日の体育のマラソンでの一斉の掛け声(1,2,3,4などみんなで声合わせる掛け声)で「喋れた」と報告して一瞬喜ばれ、それは喋れてないと怒鳴られる日々。

玄関に追い出されていたこともありました。

残さられる事例としてもう1つあって、それが給食でした。

僕は好き嫌いがめちゃくちゃ多くて、野菜全般食べれませんでした。しかも野菜は給食にほぼ毎日絶対あります。

小学生の当時は給食を全部食べるまで、ずっと片付けられなくて居残りでした。

野菜が嫌いな子も他にもいたのですが、その子は他の子にあげたり、少なく盛ってもらうなど交渉したり、先生に見せる時色々言い訳などをして居残りを免れていました。

ですが、僕は喋れずいつも他の人と同じ量。あげることも言い訳もできず毎日のように居残りでした。

給食が終わり、昼休み、5時間目、6時間目、放課後と授業中もずっと給食がありました。もういいよと言われるまでずっと給食の食器と野菜が残っていました。

先生と家の板挟みの日々が1、2年ほどありました。それを耐え続け小学校は一言も喋らずに卒業しました。

中学校 -場面緘黙症の別れ・克服-

中学生になっても当然小学校からの同級生もほぼ全員いるので、強固になり続けてる場面緘黙症は継続します。

しかもそれに加え4つの別の小学校だった子たちが一緒になったので、僕が場面緘黙症であることを自他共に認識する人数も4倍になりました。

小学校でも話しましたが、喋らないってめっちゃ目立ちます。最初の自己紹介などで無言を貫くので、僕の場面緘黙症はバレます。

クラス全員にこの子は喋らない子と認識を持ち一瞬で喋らない普通じゃない子がみんなの認識で一致します。

先生は幸いにも優しい人で僕の場面緘黙症を受け入れてくれる人でした。そのおかげか給食の居残りも中学ではほとんどなかったような覚えがあります。

ですが、問題は同級生のいじめの過激化でした。

中学校のいじめは小学校の時の比ではなく、めっちゃいじめられました。

いじめはブルーハーツのトレイントレインのように強い奴から弱い奴へいじめは発展していきます。(弱い奴が夕暮れさらに弱いものを叩く♪)

僕は喋らない抵抗しない、カーストの最下層。クラスのヤンキーからそのヤンキーにいじめられてる子までいろんな人にいじめられていました。

しかも中学はほぼ男子のいじめになり、力も強くやり方も酷く毎日が憂鬱でした。

僕は「喋らない」他にも小学校から継続中の「走らない」

そして学校に1人はいると言われている「冬でも半袖半ズボン」でした。もう逆に目立ちたがり?と思うほどの子供でした。

運動会のリレーでは俺がいることでクラスが負ける。冬の部活などで他学校に試合などいく時寒そうなど白い目でみられる。

当時も中学校には普通クラスの他にも障害者用のクラスなどもあったんですが、僕は普通クラスの1人として中学校を暮らしていました。

場面緘黙症とういう症状も当時はわからなかったので、普通クラスの一人として僕は中学校3年間を過ごしました。

「当時の俺すげぇなぁ」って「迷惑も沢山かけていたなぁ」って

いろいろな感情が振り返って書いていると湧き出ます。

中学校も3年間喋らずに終わりを迎えようとする3年生の時みんなが高校入試や進学先などを迎えていました。

その当時僕は致命的に頭が悪かったんです。

場面緘黙症と頭の悪さは関係ないと思われがちですが、意外と関係します。

聞けない、喋れないって結構学力に直結します。まぁ塾などにも当然行っていなかったので、頭は相当悪かったです。

幸いにも家の近くに偏差値が超低い誰でも入れるような高校がありました。

しかし、その時父親に

「中学校の時の同級生が誰もいないところに行こう」

と言ってくれました。

僕の家の近くの高校は同級生の頭の悪い人が何人が入学予定でした。なので僕は同級生が誰もいないバスと電車で1時間~2時間ほどかかる。

中学の同級生が誰もいない高校へ入学を決めました。

この時の決断が僕の場面緘黙症とのお別れの瞬間でした。

前期は面接重視だったので、受けず。後期の筆記重視、簡易面接のみ受けて無事高校は合格し入学しました。

高校後期入試はほとんど人もいなかったですが、受かった時、中学校の3年間同じ先生だった優しい女性の先生とギュッと握手をしてニコッと笑ってくれたのを今でも覚えています。

そして中学校も一言も喋らず卒業しました。

12年間喋らなかった男の話の最後の年でもありました。

高校生になってからも空白の12年間があった僕の1歩目は悲惨でした。
こちらもまた別で書いていきます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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